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鹿児島地方裁判所 昭和57年(行ウ)1号 判決 1986年12月02日

原告

永野弘子

右訴訟代理人弁護士

増田秀雄

被告

地方公務員災害

補償基金鹿児島県支部長

鎌田要人

右訴訟代理人弁護士

和田久

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告

1  被告が昭和五三年三月三一日付で原告に対してした地方公務員災害補償法に基づく公務外認定処分を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決

二  被告

主文と同旨の判決

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  訴外永野善男(以下「永野」という。)は、昭和三六年四月以来教職にあり、昭和四三年四月以降鹿児島県福山町立牧之原高等学校(以下「牧之原高校」という。)に勤務していたものであるが、昭和五二年一月二七日午後二時五五分頃、鹿児島県姶良郡福山町福山五三九九の一番地所在同高校会議室において、同高校PTAの会議に教務主任として出席中、突然意識不明になつて倒れ、救急車で近くの福山病院に収容された後、同日午後九時一五分、同病院で死亡した。

2  原告は、永野の配偶者であるが、永野の死亡が公務に起因して発生したものであるとして、被告に対し、地方公務員災害補償法に基づき、公務災害の認定を請求したところ、被告は、昭和五三年三月三一日付で、永野の死亡は公務に起因したものとは認められない旨の決定(以下「本件処分」という。)をした。

3  原告は、これを不服として地方公務員災害補償基金鹿児島県支部審査会に対し審査請求したが、同支部審査会は、昭和五五年四月一四日付で右審査請求を棄却する旨の裁決をしたため、更に原告は、地方公務員災害補償基金審査会に再審査請求したが、同審査会は、昭和五七年一月一三日付で右再審査請求を棄却する旨の裁決をし、同裁決書の謄本は、同年二月七日原告に送達された。

4  しかし、永野の死亡は、次のとおり公務に起因して発生したことが明らかである。

(一) 永野の健康状態の変遷

(1) 永野は、昭和一一年九月四日鹿児島県熊毛郡屋久町に生まれ、昭和三四年三月鹿児島大学農学部を卒業し、昭和三六年四月から昭和四三年三月まで鹿屋農業高校農業土木科教諭を勤めた後、同年四月牧之原高校に農業土木科教諭として赴任し、以来死亡するまでその職にあつたものであるが、出生以来昭和四八年夏頃までは健康状態に何ら異常がなく、体格にも恵まれ、スポーツも好きで、むしろ通常人以上に元気があつた。肥満はなく、特に美食家、過食家であつたこともない。また、酒は普通にたしなみ、タバコは一日一箱位吸つていた。

(2) 永野は、昭和四八年七月二五日頃、夜間呼気時に喘鳴を伴う呼吸困難発作、咳嗽があるのに気付き、同年九月七日林茂文医師(以下「林医師」という。)の診察を受けたところ、同医師により僧帽弁閉鎖不全症と診断された。

それ以来永野は、林医師の指示に従い、タバコをやめるとともに飲酒も少量にし、激しい運動を避けるなど日常生活上僧帽弁閉鎖不全症が増悪しないよう注意するとともに、原則として二週間に一度は林医師の許に通院し、毎日薬を服用するようになつて、時折うつ血性心不全の症状を呈しながらも、症状は軽くなつていつた。なお、永野は、昭和四九年七月二日霧島杉安病院で人間ドックに入り検診を受けた際、僧帽弁閉鎖不全、冠不全、不整脈が認められたが、月一、二度の医師による健康診断を受けること及び心臓の管理を十分に行うよう注意されたものの、食事、嗜好品、運動、睡眠、仕事については従前どおりで、運動はむしろ軽いものをした方がよく、特に休養をとることはない、との診断を受けた。

(3) 昭和五一年四月以降の永野の健康状態はそれ以前と比較すると、増悪し、それまで鎮静化の傾向があつた基礎疾病たる僧帽弁閉鎖不全症が、とりわけ同年秋以降全体として悪化し、うつ血性心不全状態を起こす頻度が高くなつた。すなわち、永野は、同年四月以降も二週間に一度は必ず林医師の許に通院して診察を受け、薬を毎日服用し、またうつ血性心不全状態になつたときには、すぐ通院して治療を受け、症状の増悪を防ぐ努力を律儀に続けていたにもかかわらず、同年六月頃心臓の調子が悪く、年休を利用して不定期の通院を数回重ね(六月中一か月で年休を九回もとつている。)、同年九月にもうつ血性心不全を起こして通院をし、かつ同月九日から同月一五日まで病気休暇をとつて自宅静養をし、同年一二月には再びうつ血性心不全を起こして通院を数回しているのであつて、感冒の流行する時期如何を問わず周期的に増悪化していた様子が窺えるのである。

(二) 永野の勤務条件の変遷

(1) 昭和三六年四月から昭和四三年三月までの鹿屋農業高校在勤中は、同高校が平地の大規模校であり、新任校でもあつた関係上、永野が特に過重な公務に従事していた様子は窺えない。

(2) 昭和四三年四月牧之原高校に赴任してから昭和五一年三月までは、永野は、同高校の他の教員とほぼ同量、同質の公務をこなしていた。

もつとも、牧之原高校は、標高約四〇〇メートルに位置し、鹿児島では珍しいほど冬の冷込みが厳しく(冬期においては毎日のように最低気温が氷点下を割り、零下3度ないし4度の日も珍しくない。)、元来僧帽弁閉鎖不全症という心疾患を持つていた永野の身体にそれが悪い影響を与えたことは十分に推測される。また牧之原高校は、農業土木科と家政科のみの小規模な昼間定時制高校で、生徒の学力が低く、従つて各教員の雑用も比較的多いうえに生徒の学業及び生活の指導に余計労力を費やされる点で、永野は、鹿屋農業高校時代と比較してより多忙な生活を送るようになつた。更に永野は、測量士補の国家試験を受験する生徒のため、希望者に毎年三月から五月二〇日前後の試験前日まで、毎朝七時二〇分から一時間補習授業を行つていたので、その分他の同僚教員より多忙であつた。

(3) 昭和五一年四月以降の永野の勤務条件は、以下に述べるとおり、前年度のそれと比べて著しく多忙なものであつた。

(ア) 担当授業について

昭和五一年四月以降に永野が担当した授業時間数は週一六ないし一八時間であつて(同年度には校舎移転等があつて全体的な時間割の編成が三、四回変わつた形跡がある。)、うち六時間は主として屋外でなされる測量実習であり、担当授業の忙しさには一年を通じてさほどの変動はない。

(イ) 四年生担任としての公務について

牧之原高校農業土木科の生徒は、三年次までに通常の学校における授業科目を修了し、四年次に全国各地での実習科目を経て同校を卒業するものとされており、永野は昭和五一年四月以降四年生担任の職務に従事した。その具体的な職務内容は、毎月一回全国の実習先に散らばつている四年生に文書で連絡をすること、四年生及びその実家と連絡して絶えずその動向を把握すること、夏休みに実習生指導のため実習先に出張すること、冬休み(正月)に四年生の訪問を受けること、卒業判定会の資料を作成し、卒業式の案内状を送付したり、卒業判定会及び卒業式の準備をすることなどである。四年生担任の教員の場合、在校生がいないだけ楽なようであるが、一年生ないし三年生の担任の場合と異なつて副担任がおらず担任一人が右職務を担当するので、実質労働量には差がない。

四年生担任としての公務の大きな特徴は、その最も忙しくなる時期が、三月一日に行われる卒業式の準備等の関係で、一二月から翌年一月にかけてであること、一年生ないし三年生の担任教員にとつて負担が軽くなる七月から八月にかけての夏休み及び一二月末から翌年一月初めにかけての冬休みが、前記のとおり、夏の実習生指導や正月前後の帰省した四年生の連日の担任宅訪問の接待で潰れ、休養になりえないことであつた。

(ウ) 教務主任について

永野は、昭和五一年四月から校務分掌上教務主任の地位についたが、その際人事異動により牧之原高校の校長以下一九名のうち、校長、教頭を含む九名が変わり、教頭も新任で不慣れであつたため、本来の教務主任の職責である学校全体の教育カリキュラムのまとめ、各学科間の連絡調整を行う教務全般の企画、学校行事の計画推進すなわち年間、各学期、各月の行事予定を立案し、予定表を作成することなどのほか、本来は教頭の職務である関係団体、官公署との連絡、公文の授受、仕分け及び報告文書作成の仕事をも担当した。また、前記人事異動により永野が学内事情に最も明るい最古参の教諭になつたため、永野は、教務主任が担当するのは例外的とされる時間割変更の仕事をも担当したのである。右のような永野の職務が、昭和五一年四月以降永野に繁忙を強いた最大の理由となつたものであつて、その忙しさの程度は、一年を通じてさほどの変動がなかつたものと思われる。

(エ) その他の公務について

昭和五一年度に永野が担当したその他の公務の中で特筆すべきものをあげると、まず同年五月から一二月にかけて行われた校舎移転関係の仕事(五月から六月にかけて校舎の移転、九月に実験室の移転、一〇月から一二月にかけて庭木の移植及び新たな植樹がそれぞれ行われた。)や牧之原高校創立三〇周年関係の仕事(昭和五一年一〇月頃から始めた卒業生の現住所調査及び名簿作成の作業)のほか、生徒指導、三年生の就職指導、測量部顧問としての仕事などがあつた。

(オ) 以上のとおり、昭和五一年四月以降の永野の公務は一年を通じて多忙を極めていたことが明らかである。

そもそも教務主任に就任すると多忙になるため、担当授業時間数を一一時間程度に減らしてバランスをとるのが通常であるのに、昭和五一年度は主任制導入の年であつたために混乱があり、永野の教務主任就任が四月末ないし五月初め頃となり、授業も相当程度進んでいたので、就任後も四月初めの時点で割り当てられた週一六ないし一八時間の他の教員と同等の授業時間数をそのまま継続せざるを得なかつたのである。しかも、永野は、本来教務主任の職務には属さない公文関係の仕事や日々の時間割変更の仕事なども自己の仕事として引き受けていた。このほか、校舎移転に関連する一連の仕事及び創立三〇周年関係の仕事などが例年にない仕事として加わつた。そして、このような多忙さの程度は、昭和五一年四月から昭和五二年一月二七日の死亡時までを通じてさほど変わらず、強いていえば、三学期に入ると四年生担任としての仕事が増えるうえ、創立三〇周年関係の仕事も重なつてくるため、昭和五一年一二月から昭和五二年一月にかけてが最も多忙になつていた。

(三) 永野の死亡前三か月間の勤務及び生活状況

昭和五一年一〇月二八日から昭和五二年一月二〇日までの勤務状況は別表1のとおりであり、同月二一日から同月二六日までの勤務及び生活状況は別表2のとおりである。ただし、右各別表の勤務内容欄に記載したものは、主に担当授業の内容であり、これ以外に日日の時間割の変更、補充、振替等の作業や公文の授受、創立三〇周年事業としての卒業者の名簿作成、随時四年生やその父兄、勤務先との連絡をとるなどの仕事に追われていたことは前記のとおりである。また別表2中、退勤後の自宅ての仕事時間は二ないし三時間半程度であつた。

昭和五二年一月二七日(死亡当日)の勤務生活状況は別表3のとおりである。

(四) 永野死亡の公務起因性について

(1) 公務起因性についての解釈

心臓疾患の基礎疾病を持つ者の死亡の公務(業務)起因性について、現在までの判例理論が到達した法理は、ほぼ次のように要約しうる。

(ア) 「公務上」であるためには、疾病あるいは死亡が公務を唯一の原因とするものである必要はなく、既存の疾病が原因となつて発病又は死亡した場合であつても、公務の遂行が基礎疾病を誘発または増悪させて発病または死亡の時期を早めるなど、それが基礎疾病と共働原因になつていると認められる場合には「公務上」と解するのが相当である。

(イ) 基礎疾病を有する者が従事していた公務内容がその基礎疾病に悪影響を与える性質のもので、作業従事期間が相当期間にわたる場合には当該発病又は死亡は、当該公務が基礎疾病と共働原因となつていると推定すべきである。

(ウ) 発病ないし死亡直前に突発的又は異常な業務による精神的肉体的負担を生ずる事態(災害)が認められない限り公務起因性を否定する見解は失当である。また公務起因性の判断には疾病発生の機序に関する医学的知見を必要とするが被災者の発病又は死亡の原因となつた疾病は、被災者の生前の健康状態・発病又は死亡に至る状況等から医学経験則上通常起こりうると認められる疾病を蓋然的に推測して特定すれば足り、医学的証明は必要でない。

(エ) 事業者(監督者)が被災者に対する安全配慮義務(健康管理義務)を怠り、基礎疾病に悪影響を与える性質の業務に従事させた場合、より強力に、当該労働者の従事した業務が基礎疾病と共働原因となつていると推定すべきである。

(2) 過労が僧帽弁閉鎖不全症に与える影響について

僧帽弁閉鎖不全症が器質的な疾患として存在していても、心機能が代償可能な状態であればうつ血性心不全等の状態を起こすこともなく、終生そのままの状態で一生を送る人も多々あるものであつて、永野の場合も、心機能の予備力以上のことをすると動悸、息切れがしてブレーキがかかり、自己制御がきくし、心不全になつても治療効果が上がり簡単に心不全から脱却できるので、適当な自己コントロールをしていさえすれば寿命を十分全うできたはずである。

しかし、通常の心機能を上回る肉体的、精神的負荷がある場合にはその負担分がうつ血性心不全として残ることになる。新内科学大系三四巻(甲第一一号証)八一頁には、「日常生活の過労、過食、寒冷、心配、激怒その他いろいろの誘因的事項を十分気をつけて除くことが心疾患を持つた患者をうつ血性心不全から守る重大な要項である」との記述があり、過労やストレスが僧帽弁閉鎖不全症という心疾患を持つた患者に対し、うつ血性心不全ないしはそれに引き続く重篤状態を引き起こす要因であることは明らかである。

(3) 昭和四八年七月頃の発病の公務起因性

永野の僧帽弁閉鎖不全症という基礎疾病そのものは、その疾病の性質上、同人が素因として元来持つていた僧帽弁の器質的欠陥に由来して発症したといえる。そして僧帽弁閉鎖不全の疾病を持つていても、何らの自覚症状もなく、うつ血心不全を引き起こすこともないまま天寿を全うする者も多々あることは前記のとおりである。

永野は、満三六歳時の昭和四八年七月頃、呼吸困難発作を自覚症状として訴えて通院することになつたものであるが、同人にそもそも器質的欠陥としてあつた僧帽弁閉鎖不全症が進行して呼吸困難発作等の症状を発現させた要因としては、前記(二)の(2)で述べた牧之原高校の寒冷な気候条件及び勤務環境の厳しさがあげられるべきである。とりわけ、永野は、教育熱心で誠心誠意公務に励み、死亡直前の頃まで林医師には、勤務が多忙すぎることについての愚痴等全くこぼさず、診断書をもらつて勤務を休むこともほとんどせず同僚教諭には多忙すぎることについて愚痴をいわぬのみならず、心疾患のことについても、その症状等について特に訴えて同情をひいたりすること等全くしない性格であつたが、そうした永野の公務遂行に精励するやり方も、昭和四八年七月頃の最初の発症の誘因となつたものといえる。

以上からして、永野の場合、昭和四八年七月頃の呼吸困難発作等の発症も、昭和四三年四月一日牧之原高校へ転勤して以後の公務の遂行が、僧帽弁閉鎖不全症の基礎疾病を増悪させて発病の時期を早めたもので、まさしく公務の遂行が、僧帽弁閉鎖不全症と共働原因となつてその基礎疾病を著しく悪化させたものというべきである。

(4) 死亡の公務起因性について

永野の死亡に至る機序については、確固たる判断が困難であるが、僧帽弁閉鎖不全症によつて左心房に血塊が生じ、これが冠動脈の内腔に詰り心筋梗塞を起こした可能性と、僧帽弁閉鎖不全症ないしこれがもたらしたうつ血性心不全に起因し、不整脈による急性心停止をきたした可能性が考えられるが、いずれであるにせよ、元々疾患を持つ心臓が肉体的、精神的負荷に耐えられなくなり、代償不可能な状態に陥つた結果死亡という事態に至つたことは明白な事実である。

そもそも僧帽弁閉鎖不全症という基礎疾病を持つ者にとつて、労働が右基礎疾病の悪化にどの程度影響力を持つかということについては、最終的には各人各様に判断することになるが、永野の場合に関していえば、(二)の(3)記載のとおり昭和五一年五月頃以降の同人の休む間もない、間断なき労働が同人の基礎疾病に悪影響を与えたことは明白である。しかも、昭和五一年度の永野の仕事内容は、中等度以上の弁膜症を有する患者にとつては相当にきついものであり、主治医としても、仕事内容を知つていれば仕事量を減らすように指導する程度のものであつた。永野は、昭和四八年七月の発症以来、林医師の指示に従い、喫煙、過度の飲酒をやめ、過激な運動もせず、毎日服薬して僧帽弁閉鎖不全症を悪化させぬよう最大の努力を払つてきたことが明らかであり、にもかかわらず、昭和五一年四月以降永野の健康状態が悪化し、昭和五二年一月二七日死亡に至つた最大の原因は、前記の昭和五一年度の公務の過重性以外に考えられないのである。

別表3に記載の死亡当日の永野の勤務、生活状況も、その死亡の公務起因性を推測させる。すなわち、昭和五一年度は、特に教務主任になつた五月頃以来多忙な日々が続いて慢性的な過労の状況に陥つていたところ、死亡前夜は、午後一二時過頃まで仕事をしていて就寝が午前一時頃であつたが、死亡当日は、それでもいつものように午前六時半頃に起床した(わずか五時間半の睡眠時間である。)。出勤時間は午前八時二〇分であつたが、当日は、それよりも一五分早く出勤してコピー取りの雑務をすませ、その後授業、校長との打合わせ、雑務等で休む間もない程過密なスケジュールに追われ、特に、五時限目の授業時間中は疲れた旨漏らして一時授業を中断する等のこともあつたものの、それを押して六時限目のPTA地区委員会に出席中、ついに卒倒して病院にかつぎ込まれ、死亡するに至つたものである。死亡前夜から死亡時までのこうした勤務生活状況をみても永野は通常の健康体の人にとつてもかなり厳しい公務の遂行をしていたというべきであり、ましてや僧帽弁閉鎖不全症という心疾患をもつていた永野に対しては、それは、まさしく致命的になる程の過激な公務であつたというべきである。そして、それが故にこそ、かかる死の事態を招いたと判断さるべきである。

いずれにせよ、永野の死亡の場合、前記(1)の(ア)、(イ)の基準を満たしており、「公務上」の認定がなさるべきである。

なお、学校当局(校長、教頭)も、遅くとも昭和五一年六月末頃には永野に心臓疾患があることに気付き、同年九月中旬には、診断書の提示によつて僧帽弁閉鎖不全症、うつ血性心不全の持病があることを明確に気付きながら、担当授業時間を減らしたり、教務主任の地位を解いたりあるいは時間割担当の仕事を交替させたり等の公務軽減措置を全く講じていないことが明らかである。すなわち、校長、教頭は、永野に対する健康管理義務を怠り、その結果、更に基礎疾病を増悪させたものといえるので、前記(1)の(エ)の基準に照らしても、公務起因性を肯定すべきである。

5  よつて、原告は、本件処分の取消を求める。

二  請求の原因に対する答弁及び主張

(答弁)

1 請求の原因1ないし3の各事実は認める(ただし、同3の事実中再審査請求を棄却する旨の裁決書謄本の送達を受けた日にちは不知。)。

2 同4の事実中永野の死亡が公務に起因したものであるとの主張は争う。

(主張)

1 永野の死因

永野の死因については、僧帽弁閉鎖不全症による左心房、左心室の血塊が冠動脈を閉塞したことを原因とする急性心筋梗塞か、あるいは僧帽弁閉鎖不全症に伴う慢性的心不全に関連して発生した心室頻脈ないし心室細動であるかにわかに判別しかねるが、いずれにせよ、同人の持つ僧帽弁閉鎖不全症ないしはそれに伴う心不全なる基礎疾病がその要因である。

2 永野の死亡の公務起因性の有無

(一) 永野の僧帽弁閉鎖不全症の発症そのものは、永野が本来素因として持つていた僧帽弁の器質的欠陥に由来するものであるから、同人の勤務先である牧之原高校の所在地が冬季に些か寒冷の地であつたとはいえ、同高校の教職員である永野の公務といまだ相当因果関係は認めがたい。

(二) 永野は、初診時以来僧帽弁閉鎖不全症に対しては強心剤、利尿剤等の経口薬による治療を繰り返していたが、冬季には感冒、発熱等に際して再三代償不全に陥り、呼吸困難、咳嗽を伴う左心不全、下肢の浮腫、肝腫大等を伴う右心不全等を再三併発し、その都度抗生物質等の経口薬で治療を受けて心不全が改善されていたが、死亡直前の昭和五二年一月一二日の林医師による最終の診察時点では心不全の所見はなく改善された。そして、同医師によれば、右終診時と初診時とで症状、所見等に著明な変化はなく、僧帽弁閉鎖不全症の症状の程度は中等度以下であつた。

もつとも、永野は、昭和五一年九月にはうつ血性心不全を併発して約五日間病気休暇をとり、更に同年一一月末から両心不全を併発し、五回林医師の許に通院し、抗生物質投与等の治療を受けているが、これも従来の心不全の併発の際と同様であり、なにもこの時に限つたことではなく、また従前同様右心不全が右治療により改善されたことは、昭和五二年一月は二一日まで一回も受診していないことからも窺え、右終診時に心不全の臨床所見がなく、胸部写真についても従来と比べて特段の変化がなく、肺血管陰影の増強、内管性浮腫が認められないことからも明らかである。

そして、右事情や永野の同僚も昭和五一年に永野の症状が悪化したとは気付いていないことなどから考えると、昭和五一年秋以降永野の症状、病態が特に著しく増悪したとは到底考えられない。ただし、僧帽弁閉鎖不全症の基礎疾患を持つ永野が感冒、発熱等により再三代償不全に陥り、呼吸困難等の心不全の状態を繰り返し、抗生物質投与等の治療を受けることによつてその都度寛解するものの、その度毎に病態が自然増悪の過程を辿つて代償不全に陥りやすくなつていたことも否めないところである。

(三) 昭和五一年度の永野の勤務内容は、農業土木科担当として週一六時間の授業を担当し、農業土木科四年生の担任を務めたほか、例年にない職務として、教務主任を務め、その他同年度には、五、六月の学校移転、七月に約一週間担任の四年生(職場実習生)指導のための関西方面への出張などもあつた。更に、原告の主張によれば、教頭が新任であつたこと、三一名の職員のうち八名が転出して牧之原高校での公務に習熟した職員が少なくなつたことから、最古参の職員であつた永野は、教務主任として教頭を補佐する立場上その負担が増大したという。

しかしながら、当時の校長は、昭和四九年四月に教頭として同校に着任し、昭和五一年四月に校長に昇格した者であつて、同校の公務に十分習熟していたのであり、右校長も新任の教頭を指導し、カバーしたものと思われるうえ、右教頭も年度当初こそ不慣れであつたものの、間もなく同校の事情にも慣れ教頭としての職責を果たし得たものと思われる。また、学校移転、実習生指導出張も一学期中のことであり、更に永野は、昭和三六年以来教職にあり、同校にも昭和四三年以来勤務しているベテラン教職員であるとともに同校の最古参の教職員であつたから、授業にせよ、教務主任としての職務にせよ、長年の在職経験から十分習熟していたものと思われ、その職務が永野にさほど精神的、肉体的負担をかけたとは考えられない。

永野の農業土木科四年生担任としての職務には、各職場に実習生として就業している担任生徒に毎月一回学校の近況を通知し、更に卒業のための準備その他の職務が加わるけれども、反面担任生徒が在校していないので必ずしも教師の負担が増大するとは限らない。

永野の出勤退庁は、死亡前三か月においては概ね登校が午前八時一〇分、平日の下校が午後六時前後であるが、学校から一〇〇メートル位の所に新築した自宅からの通勤であり、通勤にはさしたる時間、労力を要しない。このことは昭和五一年四月以降も概ね同様の状況である。また、牧之原高校の職員のうち永野だけが特に超過勤務していた状況ではなかつた。

永野は、昭和五一年度も毎月二、三回は年休をとつており、前年度と比較しても休暇日数に大差がなく、昭和五一年一二月末から昭和五二年一月にかけての年末年始の休暇、自宅研修、日曜日など合わせて一〇日余の休暇をとつているので、この間実習生の訪問と応待があつたにせよかなりの休養をとつたものと思われる。

死亡前一週間の永野の勤務状況を見ると、永野は、下校後自宅において卒業、学力検査関係の仕事を処理しており、それ以前にも退勤後自宅において何らかの仕事を処理していたことも窺えないではないが、概ね午後一二時までには就寝しているうえ、自宅において授業の準備ないしは公務の処理に従事することは教職員にとつて珍しいことではなく、多くは定型的業務であり、また自宅での仕事は自己のペースでなしうるものであつて、さほどの負担となるものではない。死亡前夜に自宅で行つた測量専門学校推薦調査書作成も一名分であり、過度の負担であつたとは認めがたい。

永野が失神発作を起こしたPTA地区委員会も穏やかな雰囲気で進行され、同人に極度の精神的緊張を生ずる場面はなかつた。

(四) ところで、地方公務員災害補償法三一条にいう「職員が公務上死亡し」た場合とは、公務の遂行と公務員の死亡との間に相当因果関係がある(公務起因性)ことが必要であり、公務員が基礎疾病を有する場合であつても公務の遂行が基礎疾病を増悪させ、死亡時期を早めるなど公務が基礎疾病と共働原因となつて死亡の結果を招いた場合には、公務起因性を認めるべきであるとする見解のあることは原告主張のとおりである。

しかしながら、公務の遂行が基礎疾病を増悪させ、死亡時期を早めるなど死亡の結果につき共働原因になつたとするためには、公務の遂行が基礎疾病の増悪と死亡に対し単に影響があるというだけでなく、相対的に有力な役割を演じているか、または少なくともその蓋然性が医学上の経験法則に照らして認められる場合でなければならない。そう解さないと基礎疾病を有する職員が右疾病に起因して死亡した場合はすべて公務災害になるという不当な結果になるおそれがある。

本件についてこれを見ると、永野の昭和五一年秋以降の僧帽弁閉鎖不全症の増悪がどの程度のものであつたかについては、前記のとおり疑問があるが、仮にある程度増悪していたとしても昭和四七年以後の経過を見れば、永野は、上気道感染(感冒、発熱)等により再三代償不全に陥り、呼吸困難、下肢の浮腫、肝腫大等の左右心不全の状態を繰り返し、その都度抗生物質投与等の治療により改善しているものの、そのたびごとに病態は漸次増悪したものと思われるところ、右上気道感染は必ずしも公務の遂行と関連があるとも思われず、また同人の勤務地が冬季には些か寒冷であつたことが必ずしもその有力な原因とも思われず(同人が牧之原にわざわざ自宅を新築していることは同地における生活が必ずしも同人にとつて堪えがたいものではなかつたからであろう。)、上気道感染にかかりやすいことは、むしろ同人の持つ基礎疾病に起因するものといえる。また、永野が昭和五一年四月以降に担当した週一六時間の授業のなかには五時間の主に戸外における実習授業があるとはいうものの、同人の僧帽弁閉鎖不全症に禁忌とされる過激な肉体労働を伴うものはないうえ、その他同人の昭和五一年度の職務内容、出勤退庁の時刻、休暇、休養の程度等から考えて、同人の職務が同人にとつて、その基礎疾病を考慮に入れても、慢性的過労を与えるほど過重かつ過激なものであつたとは到底考えられない。したがつて、同人の公務の遂行が同人の基礎疾病にとつて全く影響がなかつたとはいえないにしても、その基礎疾病を増悪させるものとは到底考えられず、同人の公務がその基礎疾病の増悪と死亡に相対的に有力な役割を演じたとも認められないから、同人の死亡は公務起因性を有しないというべきである。

(五) なお、原告は、昭和五一年九月永野から同人が僧帽弁閉鎖不全症、うつ血性心不全に罹患している旨記載された診断書の提出を受けた学校当局が同人につき勤務軽減措置を講じなかつたことを捉え、学校当局に職員の健康管理上の瑕疵があるかの如き主張をするが、右診断書の提出を受けた校長は、永野に長期間の治療を勧めたにもかかわらず、永野は、五日間の自宅療養の後出勤して右勧告に従わなかつたものであつて、同人ないし主治医から特段の申出ないしは指示がない以上校長、教頭としては、永野の病態の悪化や死亡について到底予想しえないのであるから、同人の自重を促す程度で特に同人の勤務軽減措置をとらなかつたとしても、健康管理義務違反はない。

(六) 以上、永野の死亡と同人の公務の遂行との間には相当因果関係がないものである。

第三  証拠関係<省略>

理由

一請求の原因1ないし3の各事実は当事者間に争いがない(原告の再審査請求を棄却した裁決書の謄本が昭和五七年二月七日原告に送達されたことは、弁論の全趣旨により認めることができる。)。

そこで、永野の死亡が公務に起因するものか否かについて検討する。

二永野の勤務状況について

<証拠>によれば次の各事実を認めることができ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

1  永野は、昭和三四年三月鹿児島大学農学部を卒業後、昭和三六年四月から教職に就き、以来昭和四三年三月まで鹿屋農業高校農業土木科教諭を勤め、同年四月から死亡時の昭和五二年一月二七日まで牧之原高校に農業土木科の教諭としての職にあつたが死亡当時の年齢は満四〇歳であつた。

2  牧之原高校は、四年制のいわゆる昼間定時制の高等学校であつて、三年次まで通常の全日制高校と同様に生徒を登校させて必要単位をすべて取得させた後、四年次においては、いわゆる現場実習と称して、生徒の登校義務を免除したうえ全国の職場にその職業指導を委託し、その課程を修了して初めて卒業資格を得させるという特殊な制度を有するものである。

設置学科は、農業土木科、家政科及び商業科の三科であり、うち永野の担当する農業土木科に所属する生徒数は、昭和五一年四月現在で男子合計一七四名のうち四年生は四二名である。また農業土木関係の授業(測量、応用力学、農業土木設計、材料施工、水理、農業水利、土、土質、農地開発、農業一般、農業経営、総合実習)を担当する教諭は永野を含め四名であつた(他に農業実習を担当する実習助手一名がいた。)。

勤務時間は週四四時間で、休憩時間を除き午前八時二〇分から午後五時まで(土曜日は午後零時四五分まで)であつた。

また、牧之原高校は、標高約四〇〇メートルの台地上に位置することもあつて、冬季における冷え込みは相当厳しく、最低気温が摂氏零度を下回る日が続くことも珍しくない。

3  永野が昭和五一年四月以降に担当した職務は、次のとおりである。

(一)  授業

農業土木関係科目を週一五時間、クラブ活動指導を週一時間の合計週一六時間を担当し、他の教職員と変わりがなかつた。右一六時間の担当授業の内訳は、主として教室における通常の講義形式の授業七時間、主として実習室における実習授業四時間及び主として屋外での実習授業(クラブ活動指導を含む。)五時間であつたが、月、火、木曜日の各五、六時限に行われる実習授業は、各クラス毎に農業土木関係授業を担当する四人の教諭及び一人の実習助手により共同して行われた。なお永野は農業土木科の学科にかかる企画調査統計について教科主任の橋口教諭を補助した。

(二)  四年生担任

前記のとおり、牧之原高校では四年生は登校することなく、現場実習生として全国各地の職場で稼働しているが、これら四年生(昭和五一年度は四二名)の担任としての具体的職務内容は、(1)毎月一回学校の近況等を知らせるプリントを作成し、各生徒に郵送配付すること、(2)各生徒から卒業の条件となるレポート、感想文等を年に三、四回徴収すること、(3)各生徒の実習先に対し、生徒の実習態度等を適宜問い合わせること、(4)夏期休暇中に実習生指導等の目的で各実習先の一部に出張訪問すること(昭和五一年度においては、七月一九日から同月二五日までの七日間に大阪府、京都府及び兵庫県内の実習先一二か所を訪問した。なお、台風による豪雨のため鹿児島県阿久根市での一泊を余儀なくされた。)、(5)一月から三月にかけ、各生徒を卒業式に出席させるため、各実習先に対しては卒業式出席願を、各生徒に対してはその旨の通知書を発送することであつた。

(三)  教務主任

永野が昭和五一年四月以降新たに担当することになつた教務主任本来の具体的職務内容は、(1)学校全体の教育カリキュラムのまとめ、設置三学科間の連絡調整を行うなど教務全般の企画、教育課程の編成等を行うこと、(2)入学式、体育祭、卒業式等の学校行事を計画立案し、かつ推進実施することなどである。

ところで、牧之原高校における昭和五一年四月の人事異動により、校長の転出に伴つて教頭が新校長に就任し、新教頭を外部から新しく迎えたのをはじめ、同高校に長年勤めた教職員の大半が転出し、その分外部から新しい教職員を迎え入れた結果、当時同高校での勤続八年になる永野が校長を含めた全教職員のうちで特殊な学内事情に最も明るい最古参の教職員となつた。そこで、永野は、本来教頭の職務である関係団体や官公署との連絡、公文の授受及び仕分け、ならびに報告文書の作成等の仕事にも少なくとも当初の間従事し、教頭を補助した。更に、校務分掌上永野の職務ではあるが、本来他の教職員が主体となつて従事すべき時間割の編成、実施変更作業も同教職員が転任後日も浅く不慣れであつたために自ら主体となつて従事した。

(四)  その他

永野が昭和五一年四月以降に従事したその他の職務のうち主なものは次のとおりである。

(1) 校舎移転関係

同年四月新校舎が完成したことに伴い、同年五月に実験室以外の学校設備の移転作業が行われたが、その後新校舎と実験室とが約七〇〇メートル離れてしまつたため、実験室の移転が行われた同年九月まで雨天時におけるその間の生徒の送迎のためのマイクロバスの手配を行い、その後右実験室の移転のための準備、更に一〇月から一二月初め頃まで樹木の移転の立会いや植樹などの仕事に従事した。

(2) 創立三〇周年記念関係

牧之原高校が昭和五三年五月に創立三〇周年を迎えるにあたり、永野は、その準備として昭和五一年一〇月頃から、他の教職員一名と一緒に卒業生の名簿作成作業に取りかかり、その他関係者との連絡作業にも従事した。

(3) 研究会関係

昭和五一年一一月一二日、牧之原高校の主催で農業教育研究会が開催され、永野自ら研究発表をしたほか、教務主任として会場設定のための諸準備を行つた。

(4) 早朝補習

永野は、牧之原高校に赴任して間もない頃から、測量士補の国家試験を受験する生徒達のため、希望者に毎年三月から五月二〇日前後の試験前日まで毎朝七時二〇分から約一時間補習授業を行つていたが、昭和五一年度も例年同様これを行つた。

(5) その他

生徒指導関係についても、本来の担当職務ではないが、担当の教職員が新任で不慣れであつたため、主に二学期、父兄の相談に応じたり、家庭訪問などもたびたび行つたりした。そのほか、三年生の就職指導、測量部顧問としての職務に従事した。

4  永野の昭和五一年一〇月二八日から昭和五二年一月二〇日までの勤務状況は、別表1記載のとおりであり、同年同月二一日から死亡前日である同月二六日までの勤務及び生活の状況は、別表2記載のとおりであつた。右のほか、四年生担任や教務主任としての仕事など前記3の(二)ないし(四)の職務がこれに加わつた。

5  永野の土曜日以外の平日の一般的な生活パターンは、次のとおりであつた。

すなわち、毎朝ほぼ午前六時三〇分に起床し、始業時刻一〇分前である午前八時一〇分頃に登校し、下校時刻は午後五時であるが、昭和五二年一月一〇日以降は、ほぼ連日約一時間程度の残業をし、午後六時前後に牧之原高校から約一〇〇メートルの距離の自宅に帰り、夕食をとつた後、午後八時頃から約三、四時間学校でやり残した仕事をして、午前零時ないし一時に就寝する、というものである。

6  永野は昭和五一年四月以降年次休暇を合計一六・五日、病気休暇を合計四・五日、自宅研修を合計一六・五日と、前年度と大差ない休暇をとつたが、とりわけ、同年九月九日より一週間自宅静養し、同年度の冬期休暇には一〇日間の休みをとつた。ただし、右冬期休暇期間中は、年末年始に帰省する担任の四年生が連日のように自宅に訪問したことから、その接待に追われることもあつた。

7  永野の死亡当日である昭和五二年一月二七日における勤務及び生活の状況は、別表3記載のとおりであるが、前日は自宅で深夜に至るまで卒業生一名分の測量専門学校への推薦書及び調査書を作成して午前一時頃就寝し、平常どおり午前六時三〇分に起床して午前八時五分頃に登校してコピー取りをした後一、二時限は実習室において、実習助手と共に実習授業を行い、三時限目は生徒の提出した実習ノートの整理などを行い、四時限目は校長室において校長から測量専門学校への入学資格問題について話を聞き、その際牧之原高校における三年生修了時に測量専門学校に入学することが不可能になつた旨告げられた。昼休みには昼食の後翌日の測量実習の準備として教科書等を検討し、五時限目は普通教室において「水の理論」に関する授業を行い、一五分間の休憩時間をはさんだ午後二時四五分頃六時限目に同校で行われたPTA地区委員会に出席した。同委員会においては、永野の答弁を求められるような事項はなく、穏やかな雰囲気のもとに議事が進行したが、永野は、委員会開始約一〇分後の午後二時五五分頃、突然意識不明になり卒倒した。

三永野の病歴について

<証拠>を総合すると次の各事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

1  永野は、昭和一一年の出生以来昭和四八年頃までその健康状態に外見上異常がなく、身長一七一センチメートル、体重六四キログラムと体格に恵まれ、肥満もなく、鹿屋農業高校在勤中及び牧之原高校赴任後を通じてむしろ通常人よりも健康に恵まれてみえる程の元気のある教師として、情熱をもつて教育活動に専念してきた。

2  ところが、永野は、昭和四八年七月二五日頃の夜間就寝中、突然呼気時に喘鳴を伴う呼吸困難発作を起こし、かつ咳嗽があることに気付き、同年九月七日宮崎県都城市内の病院の紹介で鹿児島市内の開業医である林医師の診察を受けた。

3  林医師は、永野から右症状の説明を受け、聴打診の結果、心尖部にLⅢないしⅣ度の収縮期雑音があつたことなどから永野の症状が中等度の僧帽弁閉鎖不全であり、呼気時喘鳴を伴う呼吸困難発作、咳嗽の症状が右僧帽弁閉鎖不全症に由来するうつ血性心不全(左心不全)によるものと判断した。

4  僧帽弁は、左心房と左心室との間にあり、心臓収縮時に閉鎖して左心室から大動脈へ流れるべき血液が左心房に逆流することを防ぐ働きをするが、この僧帽弁の心臓収縮時における閉鎖が不完全であり、血液が左心室から左心房に逆流する症状が僧帽弁閉鎖不全症である。僧帽弁閉鎖不全症の原因となる基礎疾患のうち永野の場合考えられるものは、リューマチ性心内膜炎あるいは僧帽弁逸脱症であつて、右のいずれであるかは不明であるが、両者のうちでは前者が考えやすい。リューマチ性心内膜炎は、主に子どもの頃に感染するリューマチ熱により発症するものであつて、これが治癒していく過程で弁尖の瘢痕、肥厚、短縮、変形をきたし、その結果僧帽弁の閉鎖不全状態が招来されるものである。

僧帽弁閉鎖不全症に罹患すると、前記のとおり、心臓収縮時に左心室から本来は大動脈に流れるべき血液の一部が左心房から逆流するから、大動脈を通じて全身の末梢組織に必要量の血液を送り出すためには、心拍数と左心室から送り出す拍動毎の血液量を増加させて心拍出量を増大させることになる。したがつて更に心拍出量が増大し、これが一定の限度を越えると、心臓への負担が過重になるとともに、左心室から左心房への血液逆流の増大のため左心房の圧の上昇をもたらし、肺の静脈系毛細管へ影響を及ぼして、息切れ、肺の浮腫あるいは間質性の浮腫を生じ、更にこれらの症状が昂じて心不全に陥ることになる。

したがつて、僧帽弁閉鎖不全症の増悪ないしこれに起因するうつ血性心不全の誘発を防ぐには、何よりも心拍出量の増大をきたすような上気道感染に基づく発熱や過激な運動、労作を避け、心臓への負担を重くしないよう注意することが肝要とされる。また、急激な肉体的労作を伴わない場合であつても、過度の精神的ストレスや慢性的な過労なども僧帽弁閉鎖不全症を増悪させ、心不全を誘発する有力な原因となりうる。

5  ところで、林医師は、初診時においては、右呼吸困難発作等が気管支喘息の合併症である疑いをも抱いたこともあり、強心配糖体とともに気管支拡張剤の投与を行い、更に永野に対し、通常の職務を継続して差し支えないが、心臓に著しい負担をかけるような激しい運動を避けることや風邪を引いたときは無理をしないことなど日常生活上の注意事項を指示した。

6  それ以降、永野は、それまで一日一箱位の割合で吸つていたタバコをやめ、飲酒も極力抑えるとともに、林医師の指示に従つて激しい運動も避け、症状の悪化防止に努めたが、牧之原高校での日常の公務については、右症状を理由に担当職務の軽減措置を求めることもなく、これまでと同様の職務内容を継続した。また、一か月に二回位は定期的に林医師の診察を受けるとともに、毎日利尿剤や強心配糖体などの経口薬を服用し、医師の指示を忠実に守つて病状の改善に努めた。

7  ところがその後においても、永野は、断続的に感冒に罹患して発熱することが多かつたが、その際、しばしば肝腫大を伴う(右心不全の傾向も加味した)うつ血性心不全に陥り、その都度林医師のもとに通院して抗生物質や強心剤等の経口薬の投与を受けた。

前記のとおり、僧帽弁閉鎖不全症の基礎疾病を有する患者は、心拍数が増し心拍出量が増大すると心臓への負担が増し、心不全を起こしやすくなるが、感冒による発熱があると、それは必然的に心拍数を増大させることになるので、心臓への負担を過重にし、心不全を起こしやすくするのである。また、逆にうつ血性心不全により肺のうつ血があると、感冒感染に対する抵抗力が低下し感冒に感染しやすくなり、これが更に心不全をもたらすという悪循環をもたらすことになる。

しかし、永野は、右症状を発する都度右のとおり、その都度経口薬の投与を受けるなどすると、間もなく右心不全状態は寛解し、それ以前と変わらない状態に回復していた。また、原告である妻や牧之原高校の同僚に対しても特に永野の身体の調子が悪いとの印象を与えたことがなかつた。

8  永野は、昭和四九年七月頃、霧島杉安病院の人間ドックに入り、総合精密身体検査を受けたが、その際の総合診断所見は、「主な診断」として「僧帽弁膜症、胆石症」、「軽度の所見」として「左心肥大、期外収縮、冠不全」というものであつたが、日常生活上の注意としては、食事や酒、タバコ、コーヒー等の嗜好品の摂取については今までどおりでよく、軽い運動はした方がよく、休養は特にする必要がないとされ、睡眠時間、仕事量等は今までどおりでよく、特に仕事を家に持ち帰らないとか、睡眠時間を延ばすとか、時間外、深夜、休日労働を避けるなどの指示はされなかつた。ただし、一か月に一、二回位医師の健康診断を受けた方がよいとされ、心臓の管理を十分行うようとの注意がなされた。

9  昭和五一年四月以降の永野の病状の推移は次のとおりである。

(一)  同年六月末頃、永野は、心臓に痛みを感じ苦しくなることがあるということで、同月二八、二九日の両日「通院」を理由に年休をとり、林医師のもとに診察を受けに行つた。この時はじめて永野の心臓に疾患のあることが校長らの知るところになつた。

(二)  同年九月九日から一週間、永野は、心臓の調子が悪いということで病休をとり、自宅で静養した。この時提出された診断書により、永野の心臓疾患が僧帽弁閉鎖不全症、うつ血性心不全であることが、校長らの知るところとなつた。

(三)  同年一一月末頃から一二月にかけて、永野は感冒に罹患し、これに伴ううつ血性心不全(両室不全)を発病し、肝腫大、肺野に水泡音、心拡大があつたため、利尿剤、強心配糖体、抗生物質の投与などの治療を受けるなど同月中に四回林医師のもとに通院を繰り返した。

(四)  ところが、昭和五二年一月二一日(死亡六日前)に林医師の診断を受けた際の永野の病状は、おおむね寛解しており、レントゲン検査の結果、肺血管陰影の増強、間質性浮腫の所見が認められたものの、その余は肝腫大なし、浮腫なし、血圧最高一三〇ミリメートルHg、最低八〇ミリメートルHg、尿蛋白(一)、心電図著変なし、胸部X線不変、不整脈なしと診断され、心不全状態は消失していた。なお、この時点の病状と昭和四八年夏頃の診断当初の頃の病状との間に特段の変化はない。

(五)  ところで、原告は、昭和五一年の秋以降、永野が風邪をひきやすくなつて弱々しくなつたと感じていたが、牧之原高校においては、疲れた様子も見せず、他の教職員よりむしろ元気に従前どおり公務に励んでいた。校長らは、永野の病状を知つた後は同人に無理をしないで休養をとることを勧めたりしたが、本人からの申出がないこともあつて、別段その仕事量を軽減させる措置をとることをせず、他の同僚教職員からも永野の公務軽減措置を求める旨の申出ないし要望はなかつた。また、永野は、林医師に対しても、仕事がきついなどと申し出たことは全くなかつた。

10  永野は、昭和五二年一月二七日午後二時五五分頃、牧之原高校会議室において突然意識不明となり、午後三時二〇分救急車で付近の福山病院に搬送され、直ちに同病院の山下宏医師(以下「山下医師」という。)の診察を受けたが、意識はあり、呼吸困難や不整脈はなく、脈は一分間一〇〇、血圧は最高一一二ミリメートルHg、最低八〇ミリメートルHg、心尖部に収縮期雑音あり、心電図にて著明なST低下がみられ、冠動脈の硬化が窺えるとの所見に基づき山下医師は、永野の病名を僧帽弁閉鎖不全症を誘因とする冠硬化症及び意識を消失しているところから脳血栓症と診断した。

11  同日午後五時半頃、軽い発作を起こし、次いで午後六時半頃急に強い発作があり胸部絞扼感を訴え、呼吸困難を起こし嘔吐が一回あつたので、酸素吸入心臓マッサージを開始するとともに、強心剤を投与したものの、既に呼吸停止、心停止を起こしており、蘇生に全力が尽されたが、午後九時一五分、最終的に永野の死亡が確認された。

12  永野の死因は必ずしも明確ではないが、おおむね次の二通りのうちのいずれかであると考えられる。

(一)  僧帽弁閉鎖不全症の影響により左心房に血塊を生じ、冠動脈硬化により内腔がせばまつた冠動脈に右血塊が流出してこれを閉塞し、よつて急性心筋梗塞を起こした。

冠動脈硬化症は、加齢による動脈硬化、糖尿病、肥満、高脂血症及び肉体的、精神的ストレスなどがその誘因となるものである。

(二)  僧帽弁閉鎖不全症が上気道感染、過労等を誘因として慢性的心不全状態を引き起こし、これにより心室頻脈あるいは心室細動などの不整脈発作を起こした。

四永野の死亡の公務起因性について

1 地方公務員災害補償法三一条は、職員が公務上死亡した場合において、遺族補償として、職員の遺族に対して遺族補償年金または遺族補償一時金を支給する旨規定しているが、ここにいう公務上の死亡とは、職員が公務に基づく負傷または疾病により死亡したことをいい、公務の遂行と死亡との間に相当因果関係が認められることが必要であると解される。そして職員がかねて基礎疾病に罹患しており、その増悪の結果死亡の結果を招いた場合であつても、基礎疾病の増悪について公務の遂行が相対的に有力な原因として作用し、その結果右基礎疾病を急激に増悪させて死亡の時期を著しく早めるなど、公務の遂行が基礎疾病と共働原因となつて死亡の結果を招いたと評価できる場合には、右公務の遂行と死亡との相当因果関係を肯認できるというべきである。

2 しかし永野の昭和五一年四月以降の勤務状況は、前記二で認定したとおりであるが、要するに、その職務内容としては、週一五時間の農業土木関係の授業及び週一時間のクラブ活動授業、四年生担任としての仕事、教務主任としての仕事、その他校舎移転関係等の仕事であつたところ、このうち、週合計一六時間の授業等は前年度と変わらず、かつ他の教職員とほぼ同程度の仕事量であり、また、四年生担任としての仕事は、全国に散らばつている合計四二名の生徒らに毎月一回宛学校の近況等を知らせるプリントを作成配付するほか夏期休暇中の実習生への出張訪問等の仕事を含むものであるが、一年生ないし三年生の担任とは異なり担任生徒が在校することに伴う仕事からは解放されるので、四年生担任としての仕事が他の教職員と比較して特に過重であるとは認めがたい。

もつとも、同年度、永野は校務分掌上枢要な職分である教務主任の地位に就き、前記3の(三)で認定した職務をこなしたほか、例年にない校舎移転にかかわる仕事など前記3の(四)の(1)ないし(5)の仕事も行い同高校の中心的存在として活躍していたものであつて、結局これらの例年にない仕事が加わつたことにより、同年度において永野は相当多忙であつたと認められる。しかし他面において、これらの職務は、いずれも特段の肉体的労作を伴うものではなく、しかも、永野は、教職に就いて以来一五年間一貫して農業土木関係の授業を担当してきた中堅教師であり、右授業に相当習熟していたと認められるうえ、牧之原高校勤務も八年に及び、同校の特殊事情にもかなり精通していたことが窺え、これらによると、担当授業や教務主任等の職務が同人の基礎疾病その他の健康状態を考慮しても永野に過大の肉体的、精神的負担をもたらしたものとは、いまだ認めがたいところである。

また、永野は少なくとも死亡前三か月間はほぼ連日のように残業や帰宅後の仕事を行つているが、残業は下校時刻後約一時間程度のもので、午後六時前後には帰宅しており、自宅も学校から近く出退勤に時間や労力を費すこともないうえ、帰宅後の仕事も、ほぼ午前零時前後に終えて、就寝しているものであつて、永野の日常生活の規則正しさに照らして考えても、これらが永野に特段の肉体的、精神的負担をもたらしたとは考えられない。かえつて、永野は、同年度も年次休暇、病気休暇を合わせて二一日(月平均二、三日)の前年度と大差のない休暇をとつているうえ、九月には連続一週間の自宅静養をとり、更に、夏期休暇のほか一〇日間の冬期休暇があつたことを考えれば、年末年始に訪問してくる四年生の接待に追われたことを考慮してもなお、かなりの休息をとりえたことが推認できるのである。

更に、死亡当日である昭和五一年一月二七日の永野の勤務状況をみても平常のそれと大差がなく、特段肉体的、精神的に過激な公務の遂行を余儀なくされたとは認められない。また、四時限目に校長から牧之原高校での三年生修了時に測量専門学校に入学することが不可能になつた旨告げられたことも、仮にこれによつて相当の精神的ショックを受けたにせよ、いまだ永野の基礎疾病を著しく増悪させるようなものとは到底認められず、六時限目のPTA地区委員会も穏やかな雰囲気のもとに行われ、同委員会への出席が永野に過重な肉体的、精神的負担をもたらしたとは到底考えられない。

3 他方、前記三で認定したとおり、永野の基礎疾病である僧帽弁閉鎖不全症は、その幼年時に罹患したリューマチ性心内膜炎によつて発症したものと推定されるから、右発症そのものと公務の遂行との間に因果関係が認められないことは明らかである。

そして、永野の昭和四八年夏頃から死亡時までの病状の推移をみても、少なくとも昭和四八年夏頃から昭和五一年秋頃までは、基礎疾病たる僧帽弁閉鎖不全症そのものの顕著な増悪は認められず、主に冬季において感冒等の上気道感染症に罹患した際断続的にうつ血性心不全を起こし、これが寛解するとおおむね従前の病状に復するという経過を繰り返していたところ、同年秋以降上気道感染の罹患頻度がやや高まり、とりわけ一一月末から一二月にかけて、これによるかなり重いうつ血性心不全に陥つたがその都度林医師から無理をしないように注意され、右うつ血性心不全も、遅くとも昭和五二年一月二一日林医師の診察を受けた頃にはおおむね寛解し、再び従前の病状に復していたものである。これによると、昭和五一年秋以降永野の病状は感冒等の上気道感染の罹患頻度がやや高まり、再三これに基づく代償不全に陥いるなど、かかる意味での基礎疾病のゆるやかな増悪が窺えるけれども、直ちにこれを公務に起因する増悪と認めることはできず、かえつて、公務とは関連性のない上気道感染の罹患頻度の増加がその誘因になつていると解するのが相当である。

4  もつとも、鑑定人竹下彰は、永野の僧帽弁閉鎖不全症は中等度であり、昭和五一年秋以降明らかに増悪して慢性的心不全を生じ、これが永野の死因である心室頻脈あるいは心室細動の引き金となつたものであるところ、右慢性的心不全は、昭和五一年四月以降の公務遂行により累積された過労がその原因となつたものであり、かつ心不全発生後も勤務を続けたことが心不全のコントロールを困難にしたひとつの理由であつたとしている。

しかしながら、公務起因性が肯定されるためには、公務の遂行が病状の増悪ひいては死亡に対し単に影響があるというだけでは足りず、前記のとおり、それが基礎疾病を急激に増悪させて死亡の時期を著しく早めるなど右基礎疾病と共働原因となつて死亡の結果を招いたものと評価できることを要するものであつて、昭和五一年四月から死亡時までの永野の病状の推移はそれ以前の病状と比較して著しい増悪傾向を示していたと認めることができず、また永野の同年四月以降の勤務内容は比較的多忙であつて、基礎疾病に何らかの悪影響を与えたものであつたにせよ、少なくともそれ自体基礎疾病を急激に増悪させ、死亡の時期を著しく早めるような慢性的過労状態をもたらす程のものであつたとは到底認められないから、右鑑定の結果によつても、直ちに永野の死亡の公務起因性を肯定することはできないものというべきである。

5 以上の事実を総合して判断すると、永野の昭和五一年四月以降の公務は比較的多忙であつたものの、その遂行が永野の基礎疾病たる僧帽弁閉鎖不全症を著しく増悪させ、その死亡時期を著しく早めるような過重なものであつたとはいまだ認められず、また、その間の右僧帽弁閉鎖不全症の推移も、右公務の遂行と相関関係を見出せるような顕著な増悪があつたとも認められないから、永野の死亡と公務の遂行との間に相当因果関係は認められないものといわざるを得ず、右と同旨の判断をした本件処分は相当である。

五結論

よつて、本件処分の取消を求める原告の本件請求は理由がないので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行訴法七条、民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官下村浩藏 裁判官法常格 裁判官田中俊次)

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